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高度化し、拡張するが、改革滞る中国経済?(Upgraded, Expanded, but not Restructured Chinese Economy?)

韓国のシンクタンク用にコラムを書いたのですが、韓国語で発表されるそうです。昨年、所属研究所の英文ニュースレターに書いた中身を再構成して加筆したものですが、まだ日本語では発表していないので、ここに載せておきます。特に結論の箇所は引き続き深く考えなければならないと感じています。

 

  1. 中国経済改革の三つの方向性

中国経済の成長率の低下が世界的に注目を集めており、成長率低下の背景として人口ボーナスの消失、投資効率の低下、そして世界的な需要の低迷が指摘されている。このような背景のもと、中国政府が2015年以降、複数の大型の経済改革案を打ち出したことは注目に値する。具体的には、「中国製造2025」(Made in China 2025 program)、「一帯一路」(One Belt One Road initiative)、そして「供給側改革」(Supply Side Reform)である。筆者の理解では、これらの政策はそれぞれ、高度化(あるいはイノベーション)、対外拡張、そして構造改革に対応している。

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中国経済の改革の第一の方向性は、中国の地場企業による研究開発や、産業構造の転換を主たる内容とする高度化である。「中国製造2025」政策や、国家中長期科学技術発展計画がこの方向性を代表する政策であり、前者は戦略的新興産業(strategic emerging industries)の振興に加えて、既存産業とインターネット産業との融合を目指しており、そして後者は企業による研究開発の促進を主たる課題としている。言うまでもなく、2000年代半ば以降の賃金上昇のもとで、新たな成長の原動力を作り出すことが重要な課題となっているのである。上海を筆頭とする自由貿易試験区(Free Trade Pilot Zones)の設置も、中国への更なる外国金融・サービス業の進出を通して、先進地域での生産性の向上を目指していると考えられる。

そして第二の方向性が、中国の膨大な製造能力、そして外貨準備を活用するうえでの国外市場の開拓と経済活動の拡張(market discovery and oversea expansion)である。すでに2000年代から、中国企業の対外進出を支援する「走出去」(‘Going Global’)政策が実施されてきたが、2015年には「一帯一路」政策も文書化されている。「一帯一路」構想とは、周知の通り、陸路で中国沿海部から中央アジア諸国を通り、欧州に達する交通網の整備を機軸とする「陸のシルクロード経済ベルト」と、同じく欧州に達する海路輸送網の整備を中心とする「21世紀海のシルクロード」、この二つのルートに沿った開発計画である。この開発計画の対象となっている地域に含まれる国々は基本的にいわゆる新興国(emerging economies)であることから、本質的には中国と新興国との間の政治経済関係の深化を目指したものだと考えられ、具体的には経済回廊(economic corridor)の建設と政府系金融機関による融資が主な内容となっている。

そして第三の方向性は、中国経済が抱える構造的問題の改革である。典型的には、「供給側改革」と名づけられて進められている一連の政策がこれに当たる。その中身としては、鉄鋼業に代表される過剰生産能力の削減が注目を集めている一方で、民営企業の更なる発展や、国有企業への民間資本の導入による混合所有制の推進も含まれている。

 

  1. 構造転換は進むか?

以上、3つの方向性に関して、現状ではどのような評価が考えられるだろうか?

第一に、中国企業の事業内容の高度化は進むだろうか?OECDのデータによれば、中国のR&D支出は2000年に40 billion USDであったものが、2010年に200 billion USDを超え、2014年には344 billionに達している。この間、世界最大の研究開発支出を行ってきている米国は、300から400 billion USDの支出となっており、中国との差は急激に縮まりつつある。2020年までに中国のR&D総額がアメリカを超えることが予想される。中国国内でのR&Dの主な担い手となっているのは政府関連部門ではなく、民間の企業部門である。例えば通信機器大手のHuawei社がサムスン電子に対して特許侵害の訴訟を起こしたことは、中国から世界をリードする研究開発型の通信機器メーカーが生まれつつあることを印象付けている。

企業のR&D支出や特許取得を促進するうえで、中国政府のイノベーション政策の役割も無視し得ない。筆者は中国四川省の企業レベルデータを用いて、イノベーション政策の対象となった企業が、政策を享受していない同等の企業に比べてどの程度、特許出願数が多いかを検討した。その結果によれば、平均的に見て、政策の対象となった企業は、特許出願数を2件程度増加させる傾向があることが判明している。興味深いことに、同研究では、中央政府の政策よりも地方政府の政策の方が、効果が高いという結果も検出されている。中国の有力な企業は政策的支援も受けつつ、より高い技術を習得し、より高度な製品・サービスを提供するようになるという傾向は進むだろう。

最近話題となってきた産業を一つ取り上げるとすれば、コンシューマー向けの無人航空機(ドローン、Drone)産業におけるDJIの成功だろう。ドローンは空撮に加えて、農薬散布と測量ではすでに実用化が進み、将来的には物流手段としても期待がかかっている。日本が得意としてきたカメラ技術やセンサー技術を多く必要としていることから、本来、日本企業がこの製品市場で競争力を発揮することも可能なはずであった。しかしながら、2017年現在、アメリカやフランスのライバルと大きな差をつけて業界ナンバーワンとなっているのは、中国深圳(Shenzhen)市に本拠を置くDJI社である。グローバル市場シェアは70%とも言われ、ドローンの中核技術であるフライトコントローラーの内製化を実現している。こうした新興産業で、有力なベンチャービジネスが登場していることは、中国経済の高度化の一つの現れであろう。中国経済は様々な問題を抱えつつも、いわゆる1980年代生まれ、「80後(Balinghou)」の世代から、技術がわかり、国際感覚を持つ、新世代の中国人企業家が生まれてきている。企業家に加えて膨大な数の技術者の存在に注目すれば、今後、中国企業の高度化は進む。

第二に、対外経済拡張は今後も進展するだろうか?中国経済は1990年代初頭より、国外からの直接投資を受け入れる形で対外開放を進めていた。しかし2000年代の後半以降には、中国企業による国外への投資も急増している。直接投資の面から見ると依然としてアメリカが最大の投資国であるが、中国の対外直接投資ストック額は、2000年の0.4 trillion USDから、2010年には1.26、そして2014年には2.19 trillion USDへと急増している。

「一帯一路」構想とは3兆ドル以上の外貨準備を活用して国外への投資を加速させようとする構想だとも言える。需要が足りないなら、自ら作り出せばよい、という発想である。「一帯一路」は、金融面ではアジアインフラ投資銀行(Asian Infrastructure Investment Bank)やシルクロードファンド(Silk Road Fund)によってサポートされる見込みで、例えばSilk Road Fundの400億ドルの基金のうち、65%に当たる260億ドルは中国の外貨準備局(the State Administration of Foreign Exchange)が出資している。これまで米国債で運用されていた資金が、特にアジアのインフラ投資へと運用されることになる。

筆者は「一帯一路」の先行プロジェクトである、国外での工業団地の建設状況を調査したことがある。それによれば、海外での工業団地の建設の際、中国国家開発銀行(National Development Bank of China)が開発資金を融資し、実際の工業団地の開発と経営は中国の民間企業や地方政府が担っている。インドネシアのジャカルタ郊外に建設された中国の工業団地の場合、興味深いことに、日本の企業も団地に進出しており、中国主導の「一帯一路」が進むことで、第三国企業がそのインフラを活用することもありえる。

率直に言って、日本国内では、中国の「一帯一路」構想に対しては、懐疑的な見方が多い。その中には、採算性を疑うものや、構想の最終的な目標が明確でないことなどが含まれる。こうした猜疑心がもたらしつつある現象の一つは、中国企業の対外進出と、日本企業の対外進出とが、「ゼロサム」(Zero Sum)のゲーム、すなわちどちらかが得をすれば、どちらかが損をする、というフレームで把握することにつながっている。実際、インドネシアの高速鉄道の輸出競争などはこうしたフレームに当てはまる。しかしながら、冷静に考えれば、中国が融資して建設した道路の上を、日本車が走ることを拒否できるだろうか?中国経済と中国企業の対外進出には、ゼロサムとプラスサム(Positive-Sum)の両面があることを認識しなければならない。

最近のニュースの中でもう一つ関連するテーマを取り上げるとすれば、習近平国家主席が、2017年1月17日にスイスのダボス会議で講演した内容だろう。演説は明らかに1月20日に就任を控えたアメリカのトランプ大統領の保護主義的政策を念頭においたものだった。特に注目に値するのは、自由貿易を「擁護」したうえで、FTAAPやRCEPに言及し、そしてその文脈で「一帯一路」にも触れている点である。演説は言う、「5月に北京で、一帯一路国際協力ハイレベルフォーラムを開催し、協力を加速させ、協力プラットフォームを作り、成果を共有する」。「一帯一路」といえばインフラ建設にその重点があったが、中国主導の経済統合構想へとつながる可能性も示唆されている。

最後に、そして第三に、中国経済の構造改革はどこまで進むだろうか?中国経済の構造的問題としては過剰投資問題、不動産バブル問題、地方政府と企業の債務問題、環境問題など、数多くの問題がある。最近、特に注目を集めている問題としては、鉄鋼の過剰生産能力が解消されるか否か、いわゆる過剰生産の問題が挙げられるだろう。国際鉄鋼連盟のデータによれば、2015年の世界の粗鋼(crude steel)生産の約半分、8億トンが中国に集中しており、更に生産能力は10億トンに達するとも指摘されている。

中国政府は老朽化した生産能力の削減を目指す改革案を提示しているものの、鉄鋼業は一部の地域では雇用面から屋台骨を支えている。一部地域、例えば河北省では新規生産能力の増設も報道されており、構造調整は容易ではない。中国の過剰生産能力の地域分布については、国有企業の雇用規模が大きい地域ほど過剰生産能力が高いとする研究も報告されており、地方の国有企業の整理とからむ解決が難しい問題となっている。改革の第三の方向性である構造調整の実現は容易ではない。

筆者が参加した中国と世界について全般的に意見交換をするインフォーマルな会議で、興味深いやりとりがあった。外国人(つまり中国人以外)が比較的楽観的に中国の未来を語るのに対して、中国から参加していた専門家が、国有企業改革への幻滅や不動産市場の異常を筆頭に、辛らつな意見を述べたのである。「楽観的な外国人専門家と悲観的な中国人専門家」という現象は他の会議でも垣間見られた。中国経済が抱える構造的な問題の深さは、我々外国人にはなかなか理解しにくいものなのかもしれない。この意味で、我々はまだまだこの点を深く研究しなければならないだろう。

  1. ハイテクで、グローバルで、しかし不安定な中国経済?

以上の通り、3つの改革の方向性を念頭に置いた場合に、暫定的な中国経済の未来の姿は、「高度化し、拡張するが、改革は滞る」というものである。このことは何を意味するのだろうか?正直に言えば、このような仮説的な中国の未来が何を意味するのか、筆者にもわからない。ただし、上記のような変化を経た後には、「ハイテクで、グローバルで、しかし構造問題を抱える中国経済」が生まれることになる。ハイテクでも、グローバルでもなかった中国の過去数十年のイメージを持つ人には、なかなか受け入れられないかもしれないが、これが現実になるかもしれない。

「加藤弘之『中国経済学入門』との対話」(@中国経済経営学会2016)メモ, 不完備な契約と制度の下での高度成長をどう評価するか?

中国経済研究の著名な研究者であった神戸大学の加藤弘之先生が、夏に逝去されたことを受けて、遺著『中国経済学入門』(名古屋大学出版会, 2016)を題材とした下記のセッションが企画されました。以下は、伊藤が一聴衆として参加してまとめた概要メモです。文字起こしには近いですが、かなりはしょっていて、また録音を再確認してのチェックはしていないので、誤りなどあろうかと思います。ぜひご指摘ください。

 

中国経済経営学会・アジア政経学会・日本現代中国学会合同企画

加藤弘之『中国経済学入門』との対話

 

201611613:30-16:00

慶應義塾大学三田キャンパス528教室にて

 

 登壇者:

毛里和子(早稲田大学名誉教授)

中兼和津次(東京大学名誉教授)

菱田雅晴(法政大学) 

川端 望(東北大学) 

 

会:  丸川知雄(東京大学)

 

丸川先生:

 この会場にいる方はもうご存知かと思うが、加藤弘之先生が、61歳の誕生日を前に亡くなった。読んでいて、この本が最後の本だという風に私は読んだ。非常に強い思いで書かれたということがわかる本だ。「入門」と書いてあるが、初心者向けということではなく、加藤先生自身が、中国経済研究にこれから「入門」するんだという気持ちがあったのだと思う。このバトンをどう受け取るか、考えなければならない。先生のお通夜で私丸川と、厳先生、中兼先生と話して企画したのがこのセッションである。川端先生を呼んだ理由は、中国研究者だけで盛り上がるのではなく、また加藤先生より年下であることもあって、お願いした。主旨に書いたように、この本自体が報告者であって、登壇者はコメンテーターであるので、フロアからは、コメンテーターへの質問をするというよりも、この本自体へのコメントをもらえればと思う。

 

毛里先生コメント:

「中国経済学の可能性を問う」

 中国政治の研究をしている毛里です。加藤さんとは非常に長い付き合いだったから、彼の死は衝撃だった。だからこそ登壇する義務があると思った。20分という制約があるが、報告したいと思う。

 まず加藤さんに追悼の挨拶をしたい。私は来年度の地域研究賞をとろうといったが、加藤さんが妙に弱気だった。この本を、日本の名著として対話がしたいと思う。

 私は政治学の分野で、加藤さんは経済で、接点ないように見えるかもしれないが、1980年代から長らく共同研究してきた。加藤さんはできるだけ共通の土俵を設定しようとしていただろう。共同研究は8件、共同執筆を6本した。俊英と共同研究できたことを誇りに思う。

日本の中国経済研究の見取り図をとると、まず中国の将来について、4つくらいのモデルが考えられるだろう。

1.普通の近代化モデル:市場経済、民主主義

2.伝統への回帰モデル:新儒学主義・新朝貢体制論

3.東アジア型モデル:権威主義から民主主義の軟着陸へ

4.「中国は中国」モデル

 個人的には3つ目のモデルをとっているが、加藤さんは最後の数年、第4のモデルに接近して行ったと思う。加藤さんはディシプリンとしての中国経済学があると考えていて、これは原洋之介の「アジア経済学」に近い視点だろう。

 もう一方で、「経済学は普遍の学」派がいて、大橋さんは日本の中国経済研究について、「主要なディシプリンから離れている、地域に切り分ける、理論はと調査の対話がない」などと批判をしている(“Studies of China’s Economy in Japan,” in China Watching, 2007 )

 本書の概要は細かくは論じない。「曖昧な制度」のケースとして5つの事例を取り上げている。土地の集団所有、郷鎮企業、混合経済、企業ガバナンス、対外対内援助関係を例に挙げている。後半は腐敗と格差の問題にも言及している。ただ、曖昧な制度との因果関係は、私は読み見て取れなかった、より政治学の問題ではないかと思った。

 終章は名文で、展望を描いている。ディシプリンとして独立させたい、という思いが書かれているが、これは大変難しい問題だと思う。曖昧な制度に近い論点として、三元構造論、第三領域論がある。例えば黄宗智さんの議論だ。

 そのうえで、本書の価値は、3つある。まず固有性にとどまることなく、普遍性へと突き抜けようとする学問的な挑戦と野心がある点だろう。次に強烈なメッセージがあって、このような本はほかには少ないと思う。そして教育的見地、学問的「遺言」も書かれている。時代を育てるという強い思いが書かれている。異邦人として中国研究をする、これにこだわっている。それがいいことなのかどうなのかはわからないが。

 加藤さんに対しては、3つの問いがある。

 第一は、資本主義とは何なのか?ブラックボックスになっているのではないか。曖昧な制度はなぜ中国では機能しているのか、溝端さんの書評で、曖昧さを支える、または抗するメカニズムを考える必要があるだろうという指摘には、私も賛同する。

 第二に、「曖昧な制度」は中国に限った問題ではないのではないか。なぜ中国にこだわるのか、なぜヨーロッパ学はないのにアジア学が必要なのか?と聞かれたらどうこたえるのだろうか。曖昧な制度は、非資本主義にはどこでもある現象ではないか。

 また、加藤さんは、体制移行は終わったと評価しているが、まだ終わっていないのでないか。また「曖昧な制度」は移行期だからこそ生じているのではないか。溝端さんは、国有と統制の強さから議論して、中国は引き続き社会主義ではないかと書いていた。そして行きつくところはどこなのだろうか。資本主義を経済の制度だけ考えていいのだろうかという問題にもつながる。包括的な政治制度、民主主義、といった問題も考えなければいけないだろう。

 原洋ノ助さんは、一部の経済学者は「経済理論とアジア経済の現実が異なっているのであれば、現実のほうが間違っている」と考えると批判している。私、毛里は現代アジア学、アジアネスを考えていきたい。中国研究のアジア化を進めていくべきだ。

 

中兼先生コメント:

「「曖昧な制度」とその意味について再度考える」

 現在書いている書評論文の原稿のエッセンスを報告する。前著、2011年に対しても書評を書いた。草稿をもらったときに、ずいぶんコメントした。ここで紹介する図を描いて、あなたの使いたいようにつかってほしいと書いたし、もっと明確にしたほうがいいとコメントした。

 私が作った図は、領域Aと領域Bがあり、例えば国有制度と民営制度がそれにあたるが、AでもありBでもある場合が曖昧だと考えられる。もう一つは、それぞれの領域にも、制度化された部分と、制度化されていない部分があるだろう、とコメントした。ただその時に無視されて、書評に書いたが、加藤さんは国民経済雑誌に反論がでていて、さらにそれを発展させたのがこの本だ。

 ただ、この本の25頁に出ている加藤さんの図は違う。「コアの領域」と「周辺領域」と分けているが、私の議論を発展させたものだ。私の議論は曖昧な部分は徐々になくなっていくだろうと考えていた。つまり非制度化部分は制度化されていくだろうと考えていた。しかし、加藤さんはいくら近代化しても、核心部分での曖昧な個所が残るだろうと考えているのだろう。コアの部分で重なっている箇所がある。しかし問題点もあり、コア部分と周辺部分をどう考えるか、これは明確に区分化ができないだろう。私が提案しているように、制度化といったほうがずっといいのではないか。ただし、領域③を発見したことは、重要な把握だろう。

 実際、何が曖昧なのか?彼は演繹的ではなく、全部で8つくらいの例を総ざらいして、帰納的に考えている。加藤さんの曖昧な制度とは、インフォーマルな制度、複数の制度が重なり合っているもので、それが偶然ではなく、構造化されているという把握がされている点に特徴がある。

 読んでみて新たな発見もあった。制度化部分と非制度化部分の重なりがある、そしてそれに加えて、それを動かす制度Cというものがあったのではないか、加藤さんが生きていたらこのCについて書いているのではないか、と考えている。この点は政治学、社会学とも関わる論点だ。

 制度Cについていえば、補完的制度メカニズムに関わる。私は1979年の論文で、中国の毛沢東時代を「緩い集権制」と書いた。制度内の役割・権限の体系が未確立で、指令や報告の仕組みが未整備である集権制、という把握だ。いま考えれば非制度的な部分があるということで、毛沢東は、制度化部分と非制度化部分の境界を自由に動かすことができた。毛沢東の権威で変えることができたのだ。

 そのうえで、書評論文では4点を指摘している。ここでは1点だけに絞って議論しておこう。加藤さんは、混合所有企業の効率性は、民営企業よりも劣るかもしれないが、限りなくそれに近い水準を達成する、あるいはその達成を目指す」(p.102)、「国家資本といえども、資本はそれ自体が増殖を追求する存在」(p.103)と指摘しているが、本当にそうだろうか。この点については、実証研究がたくさんあり、部分的民営化がどのような影響をもたらすのかさらに考えるべきだろう。

 最後に本の評価と中国研究の方向性についても言及しておきたい。南シナ海の問題を見ると、法的根拠がないのに領土化を進めており、中国政府は国際法を恣意的に解釈している。つまり、中国共産党の指導部が、領海という制度を恣意的に解釈している。広東省のウーカンの問題でも、村長は本来、農民が自由に選べるはずだった。法治が曖昧だったことからこうしたことが生じている。弁護士の武田さんは面白いことを言っており、「中国の法律が非常にラフであり、裁判官の裁量の裁量権が非常に広い」と指摘している。加藤さんは中国学を強調したので、マイナス面を小さくとらえているかもしれない。腐敗にもつながるだろうし、習近平政権下で進められる人権派弁護士への弾圧なども行われていることに注目が必要だろう。

 最後に本書は若き研究者へのアドバイスをしていて、加藤さんは、日本人は中国人ほど現地の情報に詳しくなく、また他分野の人ほど分析ツールに詳しいわけでもない、ここに危機感を持っている。しかし、日本における中国研究の深刻な危機は別のところに根本的な問題があるだろう。それは中国語、そして中国研究を嫌う、「嫌中感」の広がりだ。

 社会科学を進めるうえで、もっとも大事な問題は、斬新な問題意識、発展性のある仮説を提起することだ。新しい仮説、より重要な問題を発見する、そういった空間はまだまだ広いと思う。だから若い研究者に大いに期待したい。

 

菱田先生コメント:

「形容詞から名詞系へ:曖昧な移項?」

 コメントということになるが、報告者からレスポンスがもらえないことが残念だ。216頁にも書いてあるが、北京大学の宿舎シャクエンに一緒に住み、酒を飲んでいた仲であり、30年に渡る関係だった、長い付き合いだった。本書のなかでも、腐敗の論文については、私の研究会で報告してくれた箇所だった。加藤さんを、北京大以来の関係もあり、Jiatengと呼んできたのでそう呼びたい。

 本書の最大の貢献は、「曖昧な」という形容詞を、「曖昧な制度」と名詞形に変えたことだろう。私は国家と社会の共棲と呼んだことがあったが、研究プロジェクトとして、共同で書籍にまとめた。これにあたることを、一人で単著にまとめたことは、すごいことだ。

 ただ、いくつかの問題点もある。

 第一に、形容詞から名詞への移行、ここにまだ曖昧さが残る。コアと周辺という関係がある指摘されているが、そこにも曖昧さがあるし、また重複という把握にも違和感がある。制度自体は排他的なはずではないか、だとすれば、制度ということ自体と矛盾することが生じていることになる。

 第二、独自性、汎用性について。「曖昧な制度」、この概念はどこまでユニバーサルなのだろうか。またどのように分析装置として利用可能なのか。これが第二の問題だ。

 第三に、曖昧な制度、過渡性の問題なのか。制度の精緻化が進むと、こうした領域がなくなるのか?曖昧な契約が明示化されるとすると、時限的な問題なのではないか。

 第一の点についていえば、形容詞から名詞への変化ついては、彼は中国の「独自」の制度的特質といっている。記述概念なのか、分析装置なのか、判別がつかない。彼は「設計された中国独自のルール」と書いている(p.30)。二重になっていて、コア部分と周辺部分があると想定されている。p.28では、国家のフォーマルな領域と、インフォーマルな領域との間にも中間的な領域があると指摘していて、制度が排他的に作動すると考えると、制度の作動領域が重複していると考えられるのではないか。

 第二の点ついて、加藤さんは重層的な制度観をもっている。Williamsonを引用しているが、周辺が、精緻化されることでコアになっていく、制度がどれだけ進展するかという問題が生じる。ただ、同心円構造を縦に切ると重層的だが、それだけではない。書かれた制度は、習俗、そして意識といったものとも関連する。紙に書かれたものが執行されることによって運用されるという面がある。そして重要なことに、規定、習俗、意識、執行の間には空気がある。あえて書けば、曖昧度は、曖昧度=(規定―執行)/規定、となる。和語でいうと、きまり、ならわし、まなざし、ならいの構造だ。

 また、第8章では、腐敗について検討を加えられていて、様々なパラドックスを含む。経済発展と腐敗の問題は、開発型腐敗と略奪型腐敗という視点から書かれていて、グレーな経済空間が広範に存在することが指摘されている。ただ、制度が精緻化されることで、曖昧な制度は縮小するだろう。あえて言えば、腐敗が体制にビルトインされていると言える。そこで、収奪<成長、だから成長してきた、と言えるのではないか。腐敗の問題は精緻化を考えれば時限的な問題なのではないか。腐敗問題を考えるうえでは今後、加藤さんのアイデアを生かしていきたいと思う。暗黙の契約については、これまで国家=党に社会が包摂されていた時代から、社会の領域が広がり、しみ出す時代に入ってきた。

 最後になるが、曖昧さ、これはユニバーサルなものなのだろうか。「曖昧な制度」は非中国世界の研究に応用できるのか。時間になったので、ここで一度止める。

 

川端先生コメント:

「中国経済の「曖昧な制度」と日本経済の「曖昧な制度」:

産業論研究者として読んだ『中国経済学入門』」

 まず自己紹介させていただくと、産業論としての鉄鋼業の研究をしている。ただ、学部の授業で企業論として日本の企業システムを扱っていて、その視点からのコメントとさせていただきたい。

 私は加藤さんと面識もないが、本書の何がひっかかったのか初めに述べておこう。まず、私は日本経済が曖昧だと思っていたので、中国経済が曖昧だといわれて混乱した。そしてこの本は、何かへのアンチテーゼなのか、どうなのか、とも感じた。中国経済「学」と規定しているので、これは経済学への批判だろう。明確な制度のみを対象とするべきではないという指摘だと思うが、それ自体は非常によくわかる。ただ、この本を、中国研究者以外が読んだ時には、「中国は曖昧」VS「たいていの資本主義は明確」、と読んでしまうのではないかと思う。

 中兼先生との論争が、とても勉強になった。そのうえで。産業をミクロに研究する視点からすると、所有権と契約に曖昧さが残るという環境下で、じゃあその環境で利潤を追い求める主体をいれるとどうなるのか、何が起こるのか、という点だ。

 ここでこの点を考えるために日本の下請け制度の事例を紹介したい。

 まず基本取引契約書の謎がある。部品メーカーが取り交わす契約書には一般的義務が書かれている。しかし、その契約書には「コスト削減する」とか「納期を尊守する」とか「甲の満足する品質」などと書かれていて、事実上、無限定な義務がサプライヤーに課されている。清さんによれば、どこまで守ればいいのか、わからない契約である。

 結果なにが生じるかというと、サプライヤーは限界まで性能を高めようとする。JISを上回る社内スペックをもうけて、さらに完成車メーカー側はスペックではなく、パフォーマンスを評価する。日本では当たり前だが、他国では通用しない仕組みだ。アメリカにこの契約書を持っていったら、サプライヤーは拒否したという事例が報告されている。これでは契約ではなく、無制限なご奉公になってしまうということだ。

 サプライヤーは原価低減活動に協力しているが、量産直前に図面と発注量が決まる。そしてこのプロセスで、完成車メーカー側はサプライヤーの原価がわかる、つまり普通に考えたら企業の秘密がわかるということになる。これも他国に適用しにくい。VWでは、メーカーと価格は同時に決まる。技術成果はあらかじめ買い上げて、その後VWが詳細な図面を書く、といったプロセスを踏む。

 承認図方式における開発と製造の未分化ももう一つの論点だ。承認図は、部品メーカーの革新性の指標とされているが、これに対してメーカーは開発費も設計費も支払わない。最終的な製品単価にあいまいに組み込まれていて、開発費という項目はないが、最終的には回収されている。

 また、承認図がだれのものか、聞いても明確な答えは返ってこない。メーカーのサプライヤーの両方の手が入っているので、決まらない。長期取引がつづくので、メーカーが流用することは、まああまりないし、またサプライヤーが流用することもないだろう、と互いに期待している。

 しかし企業が地方展開、海外展開するとそうはいかない。中国で日本メーカーが車をつくる、しかしサプライヤーがついて来なかった場合、どうするか。部品の設計図をローカルサプライヤーにわたしていいのか、という問題が発生する。日本側サプライヤーが中国側サプライヤーに技術提供して解決という方法がよくとられることになる。

 こういった曖昧な制度を、日本経済論ではどう考えられているか。メンバーシップの契約の論理だ。そこでは、労働者、サプライヤーは名目上、特定の作業を行うということになるが、現実には長期の取引相手として認め合い、人格と人格を包摂する関係がある。まだどんな部品をつくるか決まっていないけど、発注する、ということが生じている。使い手は、労働者、企業を広範囲に使えることになる。その関係はたびたび非対称で、なぜか完成車メーカーが上、という関係になる。評価の在り方も、働き手をまるごと評価するということになる。個々の取引については権利・義務は曖昧化され、長期的に報酬があたえられる。この結果、取引特殊的資産がだれのものなのかという境界がぼやける。

 日本ではこういった関係が「曖昧な制度」と呼ばれている。ただ、ゲーム論などの研究では別の評価もあるかもしれない。

 では中国ではどうだろうか。加藤さんの本の曖昧な制度なかで、「個人の活動の自由度を最大限に高める」ここがポイントだろう。日本は、制度の隙間をぬって、継続的関係のもとで、濃密なコミュニケーションによってモチベーションを高め、最終的には大企業の管理を貫徹させる。しかし日本企業のやり方、制度を中国にそのままもっていくと機能しない。中国にはより中国のサプライヤーの自立性がたかく、丸川さんの議論では「支持的バリュー・チェーン」とも言われているからだ。例えば、日本ではサプライヤーが「50円原価削減できました」と言ったら、メーカーは「じゃあそれはお互いにわけましょう」となるが、中国では「50円削減できました」「じゃあ50円引いてください」となってしまう。

 加藤さんのフレームワークには、主体、企業を導入する必要があるだろう。制度そのものにくわえて、個人企業のビヘイビア、ダイナミクスを考えることが必要だと思う。ここでは渡辺さんが指摘している既存巨大企業がないから、自由に動けるということがあったのではないだろうか。

 

以下はフロアからのコメント

梶谷先生コメント:

 加藤先生は大学院からの指導教授でもあり、2010年からの同僚でもある。そういう意味で多大な影響を受けているが、私の考えから加藤先生が影響を受けているような箇所もあるとも思う。

 曖昧な制度を巡って議論が進んでいるのだが、私自身は曖昧な制度という言葉を使ったことはない。問題意識としては大事だが、理解が共通する点と自分と違う点があって、あえて使わなかった。以前に書いた本のなかで、なぜ曖昧な制度という概念を使わないのか、と中兼先生に指摘されたこともあった。

 違和感がだいぶ整理できてきた。よりクリアになってきたので、3つ指摘したい。

 第一に、今後、国際間の比較、とくに新興国、非欧米との比較が必要なのではないか、川端さんの日本の議論はその意味でとても参考になった。

 第二に、進化論的な議論が必要だろう。「包」の制度についても、本書のなかでは分析がスタティックだ。伝統的な話があって、復活しているように思えるという記述になっている。ただ、現実には、マクロな環境の変化とミクロな主体の選択というような視点から、ダイナミックに検討を深めていく必要があるのではないかと思う。

 第三に、公権力についても考えざるを得ない。とくに中国についてはそうだろう。

 加藤先生へのダメ出しではあるが、今後自分も取り組んでいきたい。今日のコメントの中では、川端先生の話はとても刺激を受けた。先週の現代中国学会で取引の仲介について報告したのだが、そこでの話とも関連する。フォーマルなものとインフォーマルなもの、曖昧な制度をインフォーマルなものといっていいのだろうか。そうすると、日本でも新興国でもあり得る話になってくる。

 川端先生のコメントは、企業間の取引関係、これが特に契約理論のなかでどう日本が位置づけられるか、という問題意識だと思う。これと中国がどう関係するか考えなければならないが、完備契約と非完備契約は重要な論点だろう。非完備契約に伴う不確実性をコントロールするための対応として、長期的契約と報復が考えられる。報復は繰り返しゲームのなかのしっぺ返し戦略だ。中国の特徴は不完備契約の中でも、問題が解決されているが、それが普通に議論されている以外の方法で解消されている。評判・仲介で解決されている、または代替されているのではないか。「包」もそのような形ではないだろうか。Alibaba,Tencentも、Eコマースで、クレジット取引ではなく、信用できる第三者として仲介することでこの問題を解決している。リスクを代替することで、長期的な関係を結ぶ必要がないということになる。いろいろなメリット、デメリットがあるが、取引する数が多いとき、また取引したことがないものの潜在的な取引相手がたくさんいるような環境では、この方法が利用される価値がある。

 

田中修先生:

「曖昧な制度」を、加藤さんが議論しはじめたきっかけはなんだったんだろうか、と考えてみた。加藤さんのキャリアの途中、国家資本主義のあたりででてきた。

 私は一つのきっかけはリーマンショックではないかと思う。資本主義の多様性論、昔からあったが、フランスのレギュラシオンの議論に似ている。レジュラシオンの議論はその後、急激にしぼんでいった。これは冷戦の終了と、アメリカ資本主義のグローバル性、ワシントン・コンセンサスの万能説によってだろう。

 リーマンショックで、資本主義の多様性を考えるきっかけになったのではないか。多様性論のなかでは、日本だけを取り上げることがかつてはあったが、いまでは中国を考えなければならなくなった。加藤先生は中国をアングロサクソンなど、どこかの類型にいれるのではなく、ひとつの独自の類型として考えていたのだろう

 これからこの議論をさらに発展させていくうえでは、日本経済史を学んでいく必要があるのではないか。明治以降の、そして戦時統制の話、ここまで含めて考えていく必要があるだろう。そこにはヒントがあると思う。この経済史と日本の対比をしていかなければならない。ただし、単純な比較ができない。例えば日本ではルイスの転換点は1960年代、資源エネルギー問題は1970年代、民間活力、規制緩和・自由化の議論は1980年代、少子化の問題は1990年代、高齢化の問題は2000年代だった。中国はこれらの問題に重複して直面しており、比較する際には、慎重に考える必要ある。

 もう一つは、1975-85年の日本論、日本人論、なぜ日本が発展できたのか、という議論があったが、これは今読むと、中国にも当てはまるものがあるのではないか。『空気の研究』など、当時の日本に関する議論にヒントがあるだろう。

 もう一つは、加藤さんは、俯瞰的に考えることの必要性を指摘していた。後の研究者へのメッセージも大事だ。中国経済研究が、非常に細分化している。博士論文を書くためには、ものすごく細かく書かねばならない、だれも書いてない問題を書くということが必要になっているから、しょうがないだろう。しかし、ある段階からは、他の分野、他の国、ここまで視野を広げていかなければいけないと思う。つまり、単に中国研究ではなくて、アジア研究であり、比較制度研究までやっていかなければならないだろう、このように考えている。

 

五味先生:

 曖昧な制度は経済学の領域からはずれているのではないか、と感じた。科学の方法には帰納と演繹の二つがあるが、結局のところ、この本はどのような方法論なのか。

 

渡邉幸男先生:

 川端先生はさきほどのコメントで、日本のサプライヤーシステムについて、曖昧な制度と語ったが、私は明確だと思った。経済の仕組みとして非常に論理的に説明されていた。契約論としては完備契約ではないが、経済システムとしては、日本の経済環境のなかで、なりたっていた仕組みだ。日産にせよ、日本企業がグループとしての成長を実現していた論理を、十分明確に、そのエッセンスを説明できていた。

 加藤さんの議論は、その枠組みのなかでの中国については、曖昧さとは何なのか、不合理なのか、気になった。独自性をどうとらえるか。「包」の歴史的伝統にいくのではなく、中国が置かれた環境のなかで、なぜ民営企業の成長が実現したのか、これを十分説明すべきだと思う。もっと嚙みつきたかったから、加藤先生にはまだまだ元気でいてほしかったと思うし、残念だ。

 

丸川先生:

 たしかに、曖昧さ、だんだん明確化してきている。例えば、本書で言及されている土地の集団所有は、だんだん曖昧じゃなくなってきている。「コア」についても、ワーディングをもう少し考えても良かったかなと思う。例えば中間的制度とか表現できたのではないか。

 

厳善平先生:

 田中さんが先ほど、いつごろからこのアイデアがでてきたのか、という話をしていた。30年来の付き合いだが、私の理解では、曖昧な制度以前には「包」の議論を、2004年頃から東洋文庫の中国経済班でやりはじめた。最初は柏先生の本を読んで、請負制を事例研究して、伝統的な知恵が生かされたという理解をしていたと思う。加藤さんは考えを進化させて、その後「曖昧な制度」という言葉にたどり着いた。たしかにリーマンショックも一つのヒントになったのだと思う。

 そのうえで、今日の議論、包に対する理解は、私と若干違う。いまの「包」は昔のものとはだいぶ変わっていて、進化的に考えなければならない。非制度的な部分が縮小し、制度的な部分が増えているという変化もある。制度化していこうとする方向性がまずあって、もう一方に「上に政策あり、下に対策あり」というような対応も見られてきた。インフォーマルななかでもどうするかという視点からとられた対応で、やはり長期的にみるとこの「曖昧な制度」現象は過渡的なものだろう。

 中国経済学、という言葉は北京大学の年鑑にもある。しかしそこには基本的にはアメリカ留学組が書いているが、アメリカ流の経済学で解釈しようとしている。そこでの議論は加藤さんの議論とかなり正反対だ。加藤さんの議論、中国の固有要素を標準化しようとしていると思う。

 制度がない中で、いかに経済成長するか。いろいろなプレーヤーがどう関係を調整していくか、という問題だろう。ただその解決の方は変わっているし、そして一部はなくなっている。昨日の共通セッションで、中山さんが、中国に行くときに、本社から全権限をもって「包」したという話があった。中国社会にはまだこの関係はあるが、ずっと続くわけではないだろうと思う。

 

星野真先生:

 弟子の立場から発言したい。実は前の書籍でも草稿段階でコメントした。私はその時にこの「曖昧な制度」は中国の独自性といえるのかとコメントした。加藤先生の答えは、日本やロシアにもあったとしても、やはり中国独自だという点だった。

 二点コメントしたいが、第一に、加藤先生は研究者として中国の独自性にこだわっていた、というのは言えると思う。現代中国を大きくとらえる、政治学や社会学も含めて、地域研究の領域に立って、その存在意義を考えていたと思う。

 第二に、もう一つ経済学そのものへの貢献も考えていたと思う。標準的な経済学からは異なるところがあるが、中国に特化することで普遍的な議論に貢献できると考えていたのではないか。神戸大学という、コースワークがあり、経済学がカチッとしているところで、そこでこういった考えを持たれたのだろうと思う。

 

毛里先生:

 まず、政治学者の立場からすると、経済学の方からこういった議論がでてきたことをうれしく思う。普通は、経済学からは「ここからは政治学ですよ」と言われて対話にならない。インターディシプリンな遺言を残されたと思う。

 政治学の立場からいうと、曖昧な領域というのはたくさんある。例えば中国の政治に現れる「小組」。これは政策決定もやるし、協調もやるし、融通無碍な機能を持っている。だから「曖昧な制度」は、政治学ではいくらでも取り上げられる。経済の領域ではある段階まで、こういった制度がうまく機能したのだろう。この融通無碍なる制度が、なぜ機能するのかを考えなければならない。なぜ国会のなんとか委員会ではなく、「小組」なのか。非民主的だが、極めて効率的な組織という面がある。こうした点を検討していきたい。

 

中兼先生:

 感じたことを述べると、加藤先生自身、この数年、ずいぶん揺れてきたと思う。例えば、2008年くらい、中国モデル論が話題になったことがある。建国60年で、中国が成功したのは中国モデルだったからだという議論があった。加藤さんはPan Weiの本をもってきたが、中国の独自性に惹かれたのだろう。Bremerの国家資本主義の議論も影響があっただろう。ぶれてきて、最終的にこの本に収斂したという感じがする。

 先ほどある方からコメントあったが、制度が進化するというのが常識で、ルールオブローの発展が経済に貢献というのが常識だった。彼は、中国は、「非制度化の経済学」をだそうとしているのではないかと思う。

 この本でも引用されているが、私の2012年の本で、中国経済の発展は、基本的には開発経済学で理解できると述べたが、彼はそれに違和感があったのだろう。では加藤さんの議論を発展させていくと、どうなるのか。文明論にも関わってくるんだと思う。私なんかは普通のノーマルな考えしかできない。つまり中国もやがて法治化し、いずれは民主化し、リベラルデモクラシーへ向かうと考える。もちろん完全に西側と同じとはいえないだろうが。中国の特色のある、リベラルデモクラシー+市場経済、という方向を考える。加藤さんの見方とは合流しないかもしれない。

 

菱田先生:

 彼は偉大な領空侵犯者だった。お互いに研究会にはいって、スマートな経済学者の領域を越えてきてくれた。この本でも、制度の進化という言葉を使っている、Jiateng本を読んでもいまだに理解できてないところもある。

 これは大きな意味での文明化論かもしれない。単線化論ではないのか、過渡期論なのか。結果的には過渡的な現象を描くための記述的概念として「曖昧な制度」を使ったのではないかと思う。正直、「曖昧な制度」という言葉を聞いて、最初はいい加減な概念だとおもい、本を読むと綺麗にまとまっていると思い、いまはやはりまだ曖昧さは残っていると思う。ピエール梶さんとか、後継者に期待したい。

 

川端先生:

 権利義務関係や、個人の独立性がクリアでないのに、うまくいってしまう。資本蓄積パターンはクリアに記述できるが、権利関係は明確ではない。加藤さん本は、ある意味で、権利義務関係をうらぎっても、最終的にはうまくいってしまうという話で、普通の財産権議論と逆の話になっている。

 この本を、中国研究者以外が読むと、「曖昧だから自由で、腐敗もあるけど、発展しているよ」と読める。「発展と腐敗のパラドックス、これがとても面白いよ」、という風に読めた。ここにいる人たちには当たり前かもしれないが。

 

丸川先生:

「曖昧な制度」が、恒久的な問題なのか、過渡的なのか、収斂していくか。こういった問題を評価するには、今後10年から15年は帰趨をみて、考えてみるべきだろう。本日は長時間、どうもありがとうございました。