いくつか出張に行ってきましたので、忘れないようにメモしておきます。今回はベルリン出張編。
1月にベルリンにあるSWP(英語ではGerman Insititute of International Politics and Security)にて「一帯一路」に関する会議が開催され、発表してきました。東アジアの多くの国々から、それぞれ一人ずつ呼んで、各国の一帯一路への反応や対応について報告しあうというワークショップです。
各国が、それぞれ置かれてきたより長期的な外交関係のもとで、新しいイニシアティブである「一帯一路」が入ってきたときに、カンボジアにように積極的に組むところ、インドネシアのように警戒感もありながらも協力するところ(インドネシアはかつて共産党によるクーデーター未遂という過去がある)、フィリピンのように特定のリーダーシップのもとで劇的な方針転換が進むところ、ベトナムのように海洋問題を警戒しながらも協力は否定しないところ、などなど色々なパターンが観察されていることがよくわかりました。
私は日本について”China’s Belt and Road Initiative and Japan’s Response:From disregard to conditional engagement”と題して報告しました。下記の図は国会(衆議院、参議院)のデータベースからAIIB(アジアインフラ投資銀行)、一帯一路に言及している委員会の数をカウントしたものです。2015年3月にAIIB参加を巡る議論が白熱した後に、国会閉会の影響もあって、一度落ち着き、2016年以降には徐々にAIIBだけでなく「一帯一路」も含めて議論がされるようになっています。議論の中身とともに、2017年後半以降、日本政府は一帯一路に条件付きで協力を表明し、同時にインド太平洋戦略が重点化しているので、そのあたりについてはとくに重点的に報告しました。現地や参加者の関心も高かったと思います。
図 衆参両院におけるAIIBと一帯一路に言及した委員会の数
出所: 国会データベース(http://kokkai.ndl.go.jp/)より筆者作成。
以下は現地での写真。
SWPはベルリンの西南部、東西冷戦の時期には米国が統治していた地域にあります。2000年代に首都機能がベルリンに移転してきたときに、ミュンヘンからベルリンに移転してきたそうです。すばらしいホスピタリティでした。
東西冷戦時代の壁にグラフィティが書かれたイーストサイドギャラリー。1989-1990年の壁崩壊後に描かれ、最近再度修復されたとのこと。あいにくの寒波で、凍える天気だったので、あまり観光はできませんでした。
壁があった当時、壁を越えようとして死亡した136名を追悼する壁画。このほかにも数千名が逃亡を試み、逮捕されていたそうです。
東西冷戦時には、西ベルリンと東ベルリンをつなぐターミナル駅であり、厳重な監視体制がしかれていたというFriedrich street駅。いまは風通しの良い構造になっていますが、当時の写真や模型を見ると、要塞のような構造になっていました。
森鴎外の舞姫で出てきてイメージできなかった「ウンター・デン・リンデン」の意義がようやくわかりました。ブランデンブルグ門に接するベルリンのメインストリート。いま最も巨大で目立つ建物がロシア大使館であるという事実にもまた驚きました。
メインストリート、ウンター・デン・リンデンのドイツ歴史博物館。重い重い現代史を、多くの人が子供を連れて、家族連れで見ていました。ヒトラーの死亡記事、そしてソビエト連邦旗がベルリンに翻ったときに写真。出張中に大英博物館館長だったNeil MacGregorさんが書いたGermany: Memories of a Nationを読んでみたのですが、冒頭でドイツについて「偉大な栄光と深いトラウマを両方抱えている国は少ない」と指摘して始まり、とても勉強になりました。ホロコーストに関する展示ももちろんありました。
ウンター・デン・リンデンにあったマイクロソフトカフェ。スタートアップの街・ベルリンの雰囲気がすこしだけ感じられました。
「深圳在外研究メモ No.47 番外編~ベルリン出張で東西冷戦と重い現代史を感じる」への1件のフィードバック
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