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深圳在外研究メモ No.17 CUHKSZにMary Ann O’Donnelさんのレクチャーを聞きに行く編~「深圳人」をめぐる政治、経済、そして文化的解釈。「本地人は政治的に作られうる」、「本質的には深圳人とは自らを改造した人を指す」

例によってこちらではWeChatの各種グループチャットで情報が交換されています。「レーザーカットのワークショップやるよ」であったり、「展示会にVR出しているよ」だったりするわけです。今回は次のような通知が来ました、「Mary Ann O’Donnelさんが香港中文大学(CUHK)の深圳キャンパスでレクチャーします」、タイトルは「中国初の村なき都市:深圳におけるローカルの再編」と。

Mary Ann O’Donnelさんは今年の初めにThe University of Chicagoから出版されたLearning from Shenzehn: China’s Post-Mao Experiment from Special Zone to Model Cityの編著者で、1995年から深圳に在住している在野の研究者であり、アーティストです。この本は一読してとても勉強になっていたので早速レクチャーに参加してきました。香港中文大学深圳キャンパス(CUHKSZ)は地下鉄の3号線の大運駅(Universiade)からさらに距離があるので、華強北から軽く1時間はかかる距離でした。

英語と中国語を両方混ぜた形でレクチャーは進みました。中身が面白かったので要点を書きます。レクチャーの参加者の大多数が深圳に住むCUHKSZの学生で、大部分が広東省出身のようで、いわゆる中国の南方の歴史については事前の知識がないと理解は困難な内容でした。

1)歴史的にみて「本地人」とはどのような概念か?

Maryさんの解説によると深圳人を考える上では、そもそも「本地人(bendiren)」の概念を知っておく必要があります。

Maryさん「嶺南という概念があるが、含まれる範囲は広い。珠江デルタ地域全体が含まれているが、土地と水との関係で区分すると、嶺南にも複数のグループの人々が暮らしてきた。第一が広州を中心とする官府(guanfu)系は土地も水も保有している支配的なグループであった。これに対して、第二のグループ、客家系は嶺南東部の山地に流れ着いたが、この地域は耕地に適さず、また水も限られていた。第三のグループがタンミン(船上生活漁民)たちで、彼らは土地と水源に対するアクセスを持たず、なおかつ科挙への参加資格もなかった。ここで「嶺南の「本地人」はだれか?」ということになるが、3つのグループにはヒエラルキーがあり、官府が一番上、次が客家、そしてタンミンが最下層に位置づけられた。官府系だと答えるのが主流的な見解になるだろう。」

いきなりディープな議論からスタートして学生も若干ざわついていました。

Maryさん「このような状況下で、香港と新界が英国に割譲された。上記のグループの中で誰が英国に協力するだろうか?官府系はこれまですべてを掌握してきたわけで、協力するメリットは全くなかった。むしろ植民に協力的だったのは客家でありタンミンだった。もっともはっきりとこれが現れるのは、英国が開発した鉄道のルートだ。鉄道は珠江デルタ地域を避けて客家の山岳地域を走っている。ここで重要なことは、植民地主義が来ることで、この地域内での「本地人」の序列が動揺したことだ。客家系は英国と協力することで伝統的に豊かであった珠江デルタの中心地を避けつつ勢力を拡大することを目指した。つまり、「本地人」は政治的につくられたり、改変されたりしうる概念である。」

デルタ地域は当然土地が湿地帯なので、そもそも鉄道敷設には向いていなかったのではないかと思うのですが、Maryさんの解説曰く、官府系の協力が得られなかったことが大きいとのことでした。ここまでが前説。

2)「深圳人」とは誰であって、誰ではないのか?どのような理念なのか?

現在の深圳、かつての宝安県、さらにさかのぼると新安県には上記のような様々なグループが潜在的にはいたわけです。では改革開放の時になにが起きたのでしょうか。

Maryさん「特区が出来上がったばかりのころ、「深圳に行く」とはつまり羅湖に行くことを意味した。福田には何もなかったからだ。やがて福田が開発されてきて走私(密輸入など)と夜总会(カラオケ、キャバクラなど)の街になった。」

Maryさん「1984年に鄧小平が深圳に来た時、漁村を訪問した。その村は養殖で豊かになった村で、請負生産制の成功例として認識されていた。農業生産請負制を政治的を補強するために、深圳の漁村を訪問することが有益だと考えられた。この訪問によって「深圳には漁民しかいない」という説が広まることになった。実際にはすでに紹介したような様々なグループがいたが、それらのグループが言及されることはなかった。政治的なストーリーのもとで、「本地人」が書き換えられたのだ。」

「深圳は漁村でした」説は鄧小平1984年訪問の産物だという指摘です。

Maryさん「その後、改革開放が進む中で、「深圳の人」が表象されることも増えていった。その展示物を見ていくと、鄧小平であり、男性である。はっきり言えば、「「深圳人」は男性」なのだ。これは伝統的な戸籍制度の考え方とも近い。男性こそが本地人であり、女性は嫁いでどこかへ行ってしまう可能性がある、と考えられてきたからだ。知識分子である以上、「深圳人」がコンセプトとして誰を意味するのか考えなければならない。」

この指摘もかなりエグイと言わざるを得ません。いわゆる「女工」さんをどう考えるか、という質問はあり得るのですが、おそらく地元に帰るという前提で考えていた、ということでしょう(レクチャーに呼んだ先生方も結構ハラハラしていたのでは…)

3)「都市改造」の先にはなにがあるのか?自分には何ができるか?

Maryさん「2006年に「来了就是深圳人(来たらすなわち深圳人)」というスローガンが使われ始めた。この時期にはいわゆる旧特区内での工場開設がすでに制限され始めており、いわゆる第三次産業、文化産業の新興が始まった。しかしこの言葉をそのまま受け取ってはいけない。例えば深圳市の戸籍人口は現在400万人と言われるが、ある政府関係者が語ったのは「管理しているのは2000万人」ということだった。つまり、生活している人の1/5しか深圳の戸籍を持っていない。「ここにきて、男性で、そして不動産を持っていたら深圳人だね」というのが一つのリアリティだ。誰が来たら深圳人ということになるのかよく考えねばならない」

この「管理人口2000万人」説は初めて知りました…。Maryさんは中国語もばっちりなので、はっきりとこう表現していました。他のデータからも要確認です。

ではもう少し別の角度から「深圳人」を定義できるでしょうか?

Maryさん「土地や不動産ではなく、実生活上で感じられる「深圳人」とは、出生地でもなく、資産によっても定義されない。行動によって定義される。この点については書籍でも議論していることだが、その定義とは「自らを改造した人、それが深圳人だ」というものだ。深圳人とは創造の結果であり、自らを改造し、変更した結果である。深圳人は過去を認めない、未来のみを認める(深圳人是不认过去的,认未来的)。北京人はちがう、北京人とは北京で生まれた人を意味する。深圳人は出稼ぎ労働者でも、その子供でも良い。お金持ちになった人であり、工場のワーカーからホワイトカラーになったひとである。」

このあたり、レクチャーの一言一言が重く、CUHKSZの学生も興味津々。福田の人は子供に標準語しか教えないし、子供も「広東語なんてできないわ!」と自信満々に言う一方で、羅湖はちがうらしく、広東語をちゃんと子供にも教えるらしい。このあたりの認識の深さにはCUHKSZの学生もまったく同意だったらしいです。「自らを改造した人」、頭にはセクシーサイボーグさんが脳裏に上りましたが、それ以外にも多くの「ああ、この人、深圳っぽいな」という人は、深圳に来てから自ら何かをはじめ、自らも、そして世界も多少変えている人が多いので、この定義には賛同できます。

Maryさん「外から、「我々とは違う人」が来て、そして自らを改造することで深圳人になってきた。その場を提供してきたのは、いわゆる「城中村(Urban Village、都市の中の村)」だ。いま問題なのは、白石洲もそうだが、こうした城中村が改造され、きれいで価格の高いマンションになっていく、ショッピングモールになっていくことだ。では、城中村がなくなったとき、「我々とは違う人」はどこから深圳に入ればいいのだろうか?いままで、みんなそこからこの都市に入ってきたのではないか?これ以降は「一定水準の人」とか、「ちゃんとした単位の人」だけが深圳に来れるようになるのだろうか?それでは北京とも、上海とも同じではないか?城中村が改造されていく流れを止めることはとてもできないが、私は白石洲に302というアートスペースを開いていて、そこで現代アートをすることで、「もう一つの可能性」を模索している。Alternativeとか、Another wayとか、Something elseでもいいが、ともかく何かをしようとしたことを残さねばならない。

1990年代に私はポスドクだったが、全く職が得られなかった。それは研究対象である深圳をだれも知らなかったからだ。だから深圳を宣伝したい気持ちをずっと持ってきた。しかし、いまはすでに深圳はInternational Cityとしても有名になった。むしろいまは深圳に対して言いたいには、「もっと謙虚になるべきだ」ということだ。だから深圳でのトークでは、かならず城中村の話をしている。深圳人は、深圳の歴史をもっと知るべきだ、本当にもっと知るべきだ、もっと知るべきだ。」

人も、都市自身も改造し続ける都市・深圳。そこで20年暮らしてきたからこそ、研究してきたからこそのレクチャーでした。レクチャーの最中、「2010年の時点で深圳にいた人はいる?」という問いかけに対して、手を挙げたにはおそらく2割くらいだったでしょうか。学生以外のシニアも含めて、みんな外から来ているので、誰も過去を知らないという事実がありました。実はこれ以外には急激な都市化とはどのようなことなのか、マンハッタンとの比較などもしていましたが、ここでは割愛…。

深圳が過去を必要としない加速都市だとしても、Maryさんのように民間の立場から都市の歴史を複層的に書いていこうとする活動に感銘をうけました。Maryさんは米国を訪問されるそうなので、深圳に戻ってきたら次は白石洲に会いに行きます。

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WeChatで流れてきたポスター。

 

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大運駅。

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CUHKSZ入り口。

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ちょっとした落書きも。

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レクチャースタート。

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香港から広州への鉄道のルートを示し、客家の土地しか走っていないと指摘するMaryさん。

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鄧小平が訪問した漁民村。これが「深圳は漁村」説を生んだと指摘。

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「深圳人は男を意味している」。

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城中村の取り壊し例をいくつか紹介。その中で莫大なお金が動いたことも話していました。

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実際はもっと学生さんいたのですが、集合写真まで残っていたのはこのくらいでした。

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サインをいただく。


2件のコメント

  1. […] 香港から入る一番の入り口のエリア。かつては「深圳に行くとは羅湖に行くことを意味した」そうです(ブログNo.17参照)。ここを見て、「なんだ深圳、中国なんてぼろっちいな」と思う人が多いと思いますが、正直ここが一番古くなっています。新しい深圳はここではありません。 […]

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